昭和49年07月08日 朝の御理解



 昨日の午前中でございました。久留米の佐田さんから電話がかかってまいりましてからね、すぐお礼参拝させて頂きますけれども、取り合えずお電話でお届けさせて頂きますというて、電話がかかってまいりました。であの今何年生でしょうか、5年生と3年生ぐらいでしょうか、娘がおりますが、二人があの、学校へ行っております。あの横断歩道を二人で渡ってから学校へ行きよった。それにその自動車が突っ込んで、二人ともその自動車に押し倒された。けれどもまぁ奇跡的に全然かすり傷一つしていない。
 もうとにかく病院に運んで、そのまぁどこか打撲のありはありゃせんかと言った様な事で調べてもらっとるけれどもなかった。ほんでさっそく学校から、その自動車のその人が乗せて、学校に連れて行っておるらしい。で学校で先生が病院に連れて行かれた。それからあのひとまず帰ってきて、して家で始めて分かったと。それで病院に行っておりますからその、病院にまあ行って参りますとすぐお礼にでてくるからと言う事だった。それにあの三年生になります下の方の娘が帰ってまいりましてから。
 お母さんおばちゃんもうおかげ頂いた。もう私があの少年少女部会にこの頃行くようになったらもうおかげ頂いたっち言ってから、もうそのことが一番だった、ほんとに少年少女会に行ってなかったら、もう私達は今日はしかって大怪我しとるか死んどるという、もうそのほんとに実感、子供ながらもですねびっくりした。ちょうど昨日新聞見せていだいておりましたら、やっぱりあの横断歩道を通っておる学童をしいて、子供が重体というのを、同時に私お礼に出て来た時にひらいとる新聞に今日。
 でとりましたから一つ間違えばこういう事にでもなるとだけれどね、おかげ頂いてから、このようなおかげを頂いたとこういうわけ。で、ねえあのほんとにもう最近、私共の家に佐田さんの方の家に、もう生き生きとした神様の働きを頂いておる。ほんとに只々恐れ入ってしまうというって、まあ昨日お礼をその出てまいりましてから、佐田さんが話しておられるんですよ。今度あちらにお神様をどうでもお祭りさせて頂きたい。おじいちゃんが一人反対なんですね。
 反対にお参りやお祭りをする事に反対じゃないけれどもその、床の間を全部取られる事が、どうも毎月そのお寺さんがみえたりするから、ばつが悪いとほいでどうも悪いとこういうわけなんです。それで私はその話をいろいろ聞かせて頂きよりましてから、成程ほんとに素晴らしいなとこう、素晴らしい事だなとこう思うんですけれども。おばあちゃんとその恵美子さん、嫁さんは是非お祭りしたい。主人もやっぱりお祭りしたい。お祭りするなら床の間に、いうなら堂々とお祭りしたい。
 ところがそのおじいちゃんが、どうもあたしは床の間にお祭りするとだけはその、賛成できんというふうに言われるからちてもはがいいと。おじいちゃんが見栄ばっかり言うて、とこういうわけなんですね。したらその御主人の恭造さんが言われる事が、「そりゃ恵美子ちょいとよっと考えてみれ。そのおじいちゃんも見栄のごたるばってん、お前達も見栄じゃないか」、とこう。
 「お前達はその床の間に堂々とお祭りしてって、そのことがすでに、まぁ俺達の信心の程度は、それこそどこのはしの隅ででも、お神様が拝めれると言う事、お祭りがでけるということ、その所からさせて頂いたら良うはないじゃろうか。」と言う風に言われるのを聞かせていただいてからですね、ほんとにおじいちゃんが見栄で言われるという、その言いよる方もやはり見栄である事に、やっぱし気づきますですね。お宅祭りでもそうですよね。主人はもう堂々とお宅祭りを奉仕したい。
 奥さんはそれとはたとえば反対説こう致しましょうか、ね。そう言う様な中にです、この皆の気持ちが一つになって、そこに見栄も外見もない、例え有難いというのが、お祭りさせてもらわなければおられない。そう言う様な話が、昨日2、3日前の晩、親子三人で話し合いがでけた。おばあちゃんもその、折角お祭りするならば、こうとこう言うて、最近はお祭りしなければおられないほどにその、まぁおかげを受けておるわけなんですよね。そのおかげを受けておるというのは。
 もうその、なんとかんとも言えんそのありがたさというものが、この家中にこうそういう雰囲気がでけてきた。その昨日一昨日その晩もおばあちゃんが言われます事に、「私は恵美子さん、ほんとにその、お祭りさせていただきたいのはの、例えばあの子供達が、あの学校行く時に、おばあちゃんただいま帰ってまります。帰ってきたらおばあちゃんただいまというてその、しゃっち私の部屋に来てあいさつに来るようにです。
 私もどうぞその、もうどこに行くでも何をさせていただくでも。家にお神様お祭りさせて頂いたら、もういちいちそう言えたり、お届けがでけたりするということが、もう私はもうほんとに楽しみだと。もうそうしなければ最近なおられんような思いがする。というて前の晩そういう話をしたばっかりだったとこういう。私はその神様と私共の仲がですたいね、そう言う様にそのもう不離なもの。私共と一体なもの。
 昨日、渡辺わ先生が出てみえてから、昨日の朝、神様に頂いてあることが、「神と一体である」、ということば頂かれたと。もうほんとにあの神と一体であると言う事は、理屈 いわば私どもと神様は一体なのだけれどもです、私どもの信心が、ね。一体にしていないのです、ね。だからいかに神様が、私共と一体になりたいとおぼしめししておられるか。いうならほんとに親子の情を持って、繋がりたいとおもうておられるかと。
 例えば正教のさんの場合なんかは、もう神様もそうだけれども、なら佐田さん自身もそれを、最近実感しておられるわけですね。子供達が、おばあちゃんただいま、今帰ってきますと、わざわざそのあいさつにくるように、そういうふうに、一々神様にお届けをしたい。そういうような場を作りたいとこう、願っておられるということ。家には例えば堂々とお祭りをしておってもです、もうそういう実感が薄らいできておるようなこと、お互いなかろうか、ね。
 そこに例えば、昨日の朝の御理解から頂いておりますと、神様は私どもと一体になりたいとおぼしめしなのだけれども、私どものお粗末ご無礼がですね、一体にここは一体だけれども(・・?は)一体ではないと言った様な、感じのところがある。そこをまぁお詫びをさせていただいてから、そのお詫びによって一体になっていくところの工夫というものをなされていかなければならん、ね。
 信心させて頂く私達が、もう例えば二人おったら、ね、信心のお話が、いやお互いが話さなければおられないというものが、お互いにあるだろうか、ね。私達の心の中に神様が、いっつもそう言う風に一体であると言う様な時には、もう神様が生き生きとしてその、働いて下さいますから、ね。ほんとに神様の間違いなしに善し悪しに付けてお話でも、どうか言わなければおられんのです。
 昨日、昨夜の御祈念の前に、末永さんがお届けしております中に、先日4、5日前でした。会社のようで出張でございました。ですから御本部にお参りして帰りがけ、兄さんにも会ってくるし、から奥城で心ゆくまで御祈念をさせて頂いた。とにかくあの若いとか年老りじゃないと信心は本気で真剣にやらせて頂けばです、もう神様の方がもうよりそうて、いつーもはたらきかけ、呼びかけ話しかけとって下さると言う事、ね。ただおかげの方にだけ真剣になるのではなくてです。
 お互い信心に、やはり真剣にならければ駄目。そんなことを私いろいろ、まぁ感じさせて頂いた事があるんですね。教祖の神様の奥城で一生懸命御祈念しよったげな。そしたらあの、お参りになった方はご承知でしょうけれども、こちらの右手に四神様の奥城がございます。二代金光様の奥城が。確かに教祖の神の奥城の前で一生懸命御祈念しておるのにですね、四神様の方からお声が聞こえてきた。それがもうそれこそ、あの丁度拡声器でいうようなお声であった。
 それがならどう言う様なお声であったかというたら、親先生のお声であった。先生がいつも私のお届けさせていただきますと、はい、はいはいと仰っしゃる。もう先生それとおんなじなお声が、四神様の方から聞こえてきた。ここんところが私は、いろいろ感じる事がございましたんですけれども、拝ましてもらいよんのは教祖の神様。聞こえてくるのは四神様の方から。お声は私の声であったと。私はお道の信心の、このう日々お互いがお取次を頂いての、このおかげを頂いておるこの働きというものです。
 ここに教祖の神様のお働きというものが、もうすでにあっておると言う事その事から感じるでしょう。拝んでおるのは教祖の神様の前。聞こえてくるのは二代金光様の方から。お声は私の声であったという。一貫しておるものなんです。いうならば私がここでみなさんに伝えておるのは、私の声であり私の話であるけれども、それはやはり教祖の神様のお言葉として、教祖の神様のお声として、頂かして頂かなければ、うそだと言う事になるんじゃないでしょうかね。
 これはなら、大坪総一郎私自身もそれをやはり感じます、ね。それをお互いがです、疎かにしておるような事はなかろうか。神様を遠いものにしておるのではなくて、なってしまっておる。とにかく佐田さんのおばあさんの言われる事じゃないですけれども、ね、ほんとにこの実感としてです、只今から行ってまります、只今帰りましたと、只今寝らせていただきますと、いちいちお神様がお祭りをでけておったら、御神様の前にそれがちょうど孫達が私の所に挨拶に来るような気持ちで神様の前に出られるだろう。
 それが楽しみだというような信心がです、ね、お互い遠のいておるのじゃなかろうか、ね。そう言う様な私はあの信心からです、やはり椛目参りが楽しゅうてたまらんのである。最近定期券を買うて、おばちゃん毎日参ってみえる。みえたらもう必ず御理解を頂いて帰られる。頂かなければ居られんのですよね、実をいうたら。そして例えばんならその、よしにつけあしにつけです、もうこれは佐田さんのところ事をいうても、やはりそれこそ神様の働きが朝から晩までです。
 もうほんとに神様の働きの、実感しておられるということがです、一家中がありがたいという雰囲気が生まれてきておる。私達がそういう信心を進めて行く一つのポイントになるもの、ね。私共があぁあったらいい、こうあったらいいと思う。または子供なら子供達に自分のいうこときかせたいとも思う。ところが自分達の例えば親なら親の権威を持って分からせるとか、いう事聞かせると言った様なものは、それはもうほんとにそれはお粗末なもんなんだ。そこから却ってひびがはいってくる。
 そこから、自分の我情がかえって悪い結果になってくる。これは思うんですけどもね、まぁどんなに自分の頭で自分の考えで、こう設備なら設備をきちっとしましてもですね、もうそんときは素晴らしい設備のごたる。もう後で確認したらー使い勝手が悪くなるから不思議です、ね。ところがですね、もう神乍らにおかげを頂いたというのはですね、初めの間は、あぁもするとよか、こうこもするといいと思いよるけれどもですね。
 いうならそれはもう、実にそのもうこうでなからければいけじゃったということが段々分かってくるです、ね。そういうおかげを頂くためにです、例えばこれは、んなら、まあ使い勝手、家とか井戸になりますけれどもです、これは対人間の場合でもそうです。自分の子供を自分の思うように動かそうと思って、よう言う事聞いてくれるというよりもです、もうこちらが言わんでも、こちらが言う以上に、かゆいところにそれこそ手が届くように、動かすと言うおかげを頂くと言うことがです。
 神様のおかげを頂かなければできるこっちゃないです、ね。けれどもやはり、申しますけども、もうし、私共が言いました時に、言う事をきかんならです、自分自身を本気で見極めさせてもらって、自分自身の信心をそのことによって高めさせていただくという信心になっていく以外にないし、そういう例えば信心の進め方。自分の思うようにならんと、ね。そういう時に自分の信心を進めていく。そういう時に、いよいよ神様を自分の身近にいただかせていただくところの稽古をさせて頂くと。
 どうでしょうか皆さんがね、例えば家族親子がちょっとご飯を頂く時でもちょっと時間があったらね、もう信心の話をしなければおられない。ほんに神様ちゃ間違いないお方のおや、と言う様にです、神様の間違いない働きをです、今ずうっと続きに頂けれるような信心になんなだめ。まして信心なあるもの同志が二人集まったら、ほんとにその神様のよしにつけあしにつけ、間違いない働きを話し合えるような信心に、自分自身がならなければ駄目、ね。
 人の悪口やら世間話やらばかり、ね。せんならんというのじゃないですよ。信心話せなならんというのじゃないですよ。世間話してはいけないというのじゃないですよ。もう世間話の中にちゃんと神様はいってれば、世間話の中に信心がはいってござる、ね。ですから、いかにもこう、世間話のごたるとでも、その世間話がいつのまにか信心につながっておる。信心話しよるごたるけれども。
 いつのまにか世間話になって、つまらん話になってしまっておる、ね。 信心話せなならんと言う様な事では、そんな結果にしかなりません。そう言う所にですたい、自分の信心を、程度を分からせてもらって、神様をもっともっと身近に。神様をもっともっとありがたい、ね。ほんとに神様と一体である印をです、様々な姿の中に感じさせていただけるおかげを頂かせてもらわにゃいけん、ね。